日本史を理解するには、洪水や水利用の「水」から見ると腑に落ちることが多い。奈良、長岡京、京都、大坂そして江戸もそうだ。特に江戸時代以降、日本文明は沖積平野に進出して稲作を本格化させた。
稲作の舞台は沖積平野であり、沖積平野は日本文明そのものの舞台ともなった。この沖積平野の物語は何度かに分けて紹介してきた。
本号では沖積平野の誕生から国土開発の夜明け、そして国土開発が全国で展開していった歴史を再整理する。
さらに、この日本文明の沖積平野の歴史は、日本特異の歴史ではなく、人類文明の歴史そのものであったことも明らかにしていく。
徳川家康の沖積平野との戦いの物語は、紀元前のエジプト文明の誕生に繋がっていく。
日本列島の骨格
日本列島は約500万年前に形成された。しかし、日本列島の地形の理解は2万年前のウイスコンシン氷河期から始めるとわかりやすい。日本列島の時間軸を少しでも人類の時間軸に近づけられる。
(図―1)は地球の34万年間の気温変動の遷移である。図を作成した元データは、2000年(平成12)に国立極地研究所の教授に教えていただいた数値データである。それは南極の氷床をボーリングして得た酸素同位体組成の数値であった。この数値は当時の大気温を示している。データが極めて膨大だったため、200年平均値を算出し、3,000年の移動平均値を求めた。
この作業は、私たち土木技術者が作業したもので、地球物理学的な正確さには欠ける。しかし、地球の長期の気候変動の傾向は十分理解できる。
この図では、2万年前のウイスコンシン氷期や、6,000年前の縄文前期の温暖化が明瞭に表現されている。この地球の大気温度の変化に基づいて、日本列島形成の物語を述べていく。
・2万年前、地球の温度は低下して、ウイスコンシン氷河期と呼ばれる寒冷期になっていた。
・降り注いだ雪は陸上で氷になった。地球上の水は氷河となって陸上に蓄積された。
・水は4℃で最も容積が小さくなる。寒冷化で冷却された海水は温度収縮した。
・主にこの2要因によって海面は低下し、海面は現在の位置から120m低下していた。
・(図―2の①)で、2万年前のウイスコンシン氷期の日本列島と海面との関係を示した。
・海面が低いウイスコンシン氷期においては、列島の山々から流出する土砂は、河川によって遠い海の底まで運ばれていった。
・この時期、日本列島には沖積平野がなく、日本列島全体が丘陵と山岳で構成されていた。
沖積干潟の誕生
・ウイスコンシン氷期から地球の温暖化が開始された。(図―1)で示されるように、2万年前から大気温度は上昇していった。
・氷河は溶け出し、海に流れ込んだ。海水は温められ温度膨張が開始された。
・約1万4千年間、氷河の融解と海水の膨張で海面は上昇していた。
・今から6,000年前の縄文前期、海面は現在より数m上昇していった。
・日本列島の山々の間の低地に海が侵入していった。この現象は縄文海進と呼ばれている。
・海が侵入したところに山々の土砂が川によって運ばれてきた。
・海が侵入していた所に川が流れ込めば、川の流れの勢いは急に弱まる。
・川の流れが勢いを失えば、運ばれてきた土砂はそこで沈降していく。
このようにして6,000年間、山々の土砂が川で運ばれ河口域で蓄積し続けたのが沖積平野の基礎となった。(図―2の②)でその様子を示した。
いよいよ次の時代で沖積平野が登場してくる。
縄文海進から現在までの海水面の低下
・6,000年前から地球は寒冷化に入り、6,000年前から現在まで大気温は降下し続けてきた。
・地球は再び冷えて、陸地で氷河が再び発達していった。
・海水は冷却され、海水は再び温度収縮していった。
・氷河の発達と、海水の収縮で、海水面は低下していった。
・海水面が低下すると、日本列島の河口周辺に6,000年間堆積していた土砂が顔を出し始めた。
・その土砂は、広大な干潟として日本人の前に登場した。(図―2の③)でその沖積平野を表した。
沖積平野の登場までは地球の気候変動の物語であった。それ以降の日本列島の歴史は、「気候の物語」から「人間の物語」にバトンタッチされていく。湿地帯の沖積平野を乾田化していく人間の物語である。
日本でその物語を大規模に始めた人間は、徳川家康であった。徳川家康の関東平野の開発が、日本国土開発の夜明けとなった。
大湿地の関東
1590年、豊臣秀吉は北条氏を破り、天下人となった。秀吉は家康に戦功報償として関東を与える、という名目で家康を江戸城に移封した。この移封は正確に言えば、家康を江戸へ幽閉することであった。
何しろ江戸城から見る関東は、見渡す限りの不毛の湿地帯であった。
縄文時代、海は関東地方の奥まで進入し、関東平野は海の下にあった。利根川、渡良瀬川そして荒川が流れ込み、海面下に膨大な土砂を堆積させていた。(図―3)は、縄文前期、海面が侵入していた関東である。
縄文時代から地球の寒冷化が進み、家康が江戸に入った時には、海面は約数m下がっていた。海面が下がると、6,000年の間に堆積した土砂が、広大な干潟湿地として顔を出していた。(図―4)は、江戸時代、広大な干潟だった関東を示している。
この干潟は厄介な湿地帯であった。少しでも雨が降れば、何本もの川が押し寄せて、何週間も何カ月間も水浸しになっていた。逆に、高潮ともなれば、海水は干潟の奥まで刺し込み、一帯は使い物にならない塩水で溢れていた。
あまりにも悲惨な光景に家康の武将たちは激昂し、すぐにでも秀吉と戦うべしと息巻いたと伝わっている。家康はその武将達をなだめ、鷹狩りと称し関東地方を歩き回っていった。この鷹狩は関東地形調査のフィールドワークであった。このフィールドワークは、日本の歴史上で重要な意味を持つこととなった。
フィールドワークで家康は、利根川である地形を発見した。(図―3)(図―4)で分かるが、利根川は「関宿」で地形的にブロックされている。利根川はこの関宿で向きを南に変え、江戸湾に流れ込んでいた。
徳川家康はこの関宿の地形に気がついた。この関宿の台地を削れば、利根川の流れは東の銚子に向かう。この関宿の台地を開削して、利根川を銚子に向けて、関東の湿地帯を乾田化する。関東湿地を乾田化すれば大穀倉地帯となる。見事な構想である。
これは今私たちが語っている利根川東遷の一つの物語である。
しかし、歴史はそう簡単ではない。利根川東遷では、もう一つの物語が語られなければならない。
関東の鬼門:関宿
家康が江戸に入ったのは1590年である。天下分け目の関ケ原の戦いの10年前である。戦国時代の最終決戦が始まろうとしている時期であった。
戦国の最終場面において、家康にとってこの「関宿」は極めて危険な地形であった。大湿地帯の中で、この関宿の台地だけが東北地方へ続く乾いた土地であった。
東北には独眼竜、伊達政宗がいた。名門の強国の上杉もいた。彼らが東北から一気に南下する時には、必ずこの台地を駆け下ってくる。この台地を南下すれば、房総半島は一瞬にして抑えられてしまう。
房総半島は古代から西日本と東北を結ぶ要の半島であった。銚子沖は強い危険な海流が太平洋に流れている。京都や大坂から来た船は、房総半島の良港に上陸して陸を使って東北に向かった。房総半島の南が上総(かずさ)と呼ばれ「上」が付くのは、海から来れば京都に近いからだった。
東北勢が関宿の台地を南下し、房総半島を占拠すれば制海権を握ってしまう。江戸湾出口の制海権を押さえられたら、家康は天下制覇どころではない。
家康にとってこの関宿の地形は、東北から鬼が入ってくる鬼門であった。
利根川を防衛の掘りに
この関宿の地形を発見した家康は、この台地を開削して、利根川と渡良瀬川の流れを銚子に向ける計画を立てた。台地を開削し、利根川の水で巨大な堀を造る。この堀で東北からの急襲を防御する。
1600年の関ケ原の大きな炎が燃えようとしている1594年、家康は利根川東遷の第1次工事の会の川締め切り工事に着手した。ところが、工事の真最中に関ケ原の戦いが開始された。利根川の工事は一時中断せざるを得なかった。
関ケ原で勝利し征夷大将軍を受けた家康は、関西を背にして江戸に帰った。まだ豊臣家が大坂城に構えているのに、東の度し難い不毛の江戸に戻ってしまった。
家康には戦いが待っていた。人間との戦いではない。過酷な関東の地形との戦いであった。利根川の流れを東の銚子に向ける「利根川東遷」であった。
利根川東遷の変質
関ケ原の戦いの最中、東北では「東北の関ケ原」と呼ばれる伊達と上杉の凄まじい戦いが繰り広げられた。その戦いは伊達の優勢で終わり、伊達政宗は徳川家康へ旗幟鮮明にした。
1614年、戦国時代の最終戦、大坂の陣が開始された。伊達政宗は徳川側で大活躍をした。江戸幕府にとって伊達政宗は信用できる盟友となった。東北の脅威は消えた。ところが利根川東遷は、営々と継続されていった。
1621年、新川が開削された。1654年、赤堀川が開削された。4代将軍・家綱の世、遂に、利根川と渡良瀬川の流水が銚子に向かった。すでに日本は戦いのない平和な時代となっていた。東北の敵から江戸を防衛する利根川の掘りは必要なくなっていた。
ここで利根川東遷の目的が霧の中に入ってしまう。
いったい、利根川東遷の目的は何だったのか?
利根川東遷の目的
この利根川東遷事業は、徳川家綱の時代で終わらなかった。江戸時代を通じて利根川の工事は継続された。川幅が拡幅された。川底が掘り下げられた。利根川東遷によって関東平野は大変身を遂げた。利根川の洪水が銚子へ向かい、不毛の湿地帯の関東が乾田化していった。日本一の穀倉地帯が誕生していった。
この時点で人々は、利根川東遷は関東平野を造るためと認識した。
幕末から明治になった。明治新政府は江戸幕府の社会制度をことごとく覆した。しかし、明治政府はこの利根川東遷事業は、そのまま引き継いでいった。
近代に入り、関東平野に日本中の人々が集まってきた。南関東に人口が集積し、大首都圏となっていった。
昭和22年、キャサリン台風が関東を襲った。利根川は右岸で決壊して流れは先祖戻りをした。濁流は東京湾に向かった。首都圏を襲い約1千人の人々の命を奪った。
利根川の治水は、極めて重要な国家課題となった。利根川の狭窄部はさらに広げられた。堤防の強化が続けられた。上流では次々と治水ダムが建設された。遊水池も建設されていった。
利根川の河川事業は、南関東を洪水から守る「治水」として21世紀の今も続いている。
・家康は伊達政宗に対する「防衛」で利根川東遷を開始した
・江戸時代、利根川東遷は関東乾田化の「国土開発」となっていた
・近代の利根川の工事は、洪水から首都圏を守る「治水」となっている
関東は日本の沖積平野の国土開発の夜明けの舞台であった。
この沖積平野の開発は空間を飛び超え日本列島へ広がっていった。
江戸の国土形成
徳川家康は征夷大将軍となり、1603年に江戸に幕府を開いた。この家康は200以上の戦国大名たちを統制するのに巧妙な手法を使った。それは日本列島の地形の利用であった。
日本列島の地形は海峡と山々で分断されていて、脊梁山脈からは無数の川が流れ下っていた。この日本列島の地形の単位は流域であった。家康は、この各地の流域の中に大名たちを封じた。
戦国時代は流域の尾根を越えた領土の奪い合いであった。しかし、江戸時代は尾根を越え膨張する領地拡張は許されなかった。(図―5)は流域単位で分割した日本列島の図である。
戦国時代までは、全国の河川は制御されることなく自由に暴れていた。特に、河川の下流部では、川は何条にも枝分かれ、乱流しながら沖積平野を形成していた。そのどの沖積平野も真水と海水がぶつかり合った湿地帯となっていた。
流域に封じられた大名たちと日本人は、外に向かって膨張するエネルギーを、内なる流域に向けていった。人々は力を合わせて扇状地と湿地帯に堤防を築いていった。自由に暴れまくる何条もの川を、一本の堤防の中に押し込めていった。
平和な時代のヤマタノオロチとの戦い
何条もの川を堤防に押し込めた目的は、はっきりしている。川が乱れ流れる不毛な湿地帯を、農耕地にすることであった。川を堤防の中に制御できれば、農耕地が生れ、富を拡大することができる。
(図―6)は、徳島県の一級河川、那賀川の平面図である。中央の2本の太い線が堤防で、現在の那賀川を表わしている。その周辺に見える幾条もの線は、かつて川が乱流していた旧河道である。今では地下に隠れて目で見ることはできないが、間違いなく旧河道のヤマタノオロチは足元に住んでいる。
この姿は那賀川だけの特別なものではない。江戸時代、全国の沖積平野でこのように堤防が築かれ、何条にも暴れるヤマタノオロチを、堤防の中に押し込んでいく作業が行われていった。
この江戸時代の流域開発によって、日本の耕地は一気に増加した。各地の米の生産高は上昇し、それに伴って日本人口は1千万人から3千万人に増加していった。そのことを(図―7)が表わしている。
この(図―7)を見ると、平安から鎌倉、室町そして戦国時代にかけて、日本の耕地面積は横ばいであり、増加していない。ところが、江戸になると一気に耕地面積が増加している。流域に封じられた大名たちが、堤防を築造し、河川を堤防に押し込めることで、耕地の増加を実現したことが分かる。
日本の堤防の99%はこの江戸時代に築造された。日本国土は平和な260年間の江戸時代に形成され、稲という富の獲得が可能となっていった。
この流域開発によって新しい富の土地を得た。しかし、この土地の下に潜んだ旧河道のヤマタノオロチは危険極まりなかった。洪水で水位が上昇すると、堤防のどこからかその顔を噴き出していった。
重機を持たない祖先たちは、知恵を絞ってヤマタノオロチとの戦いに向かって行った。
その知恵は、実に、千差万別であった。(沖積平野②へ続く)
【竹村公太郎】沖積平野の文明の物語(その1) ―日本の国土開発の夜明けー への2件のコメント
2022年2月13日 2:14 AM
先生の話は毎回、ためになります。
ブラタモリを見てるようでもありますw
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2022年2月16日 10:21 AM
先日の、赤穂での講演会の模様をYouTubeで拝見しました。
水利の歴史と人間の歴史をリンクさせた内容は説得力があり、改めて素晴らしい研究だなと思いました。
今日の神戸新聞に講演会の記事が載っており、先生の肩書きが「地形歴史研究家」と紹介されていました。
なるほどピッタリな感じがして、先生の御専門分野が正確に認識できた気がしました。
これからも面白い研究を期待しています。ありがとうございます。
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