コラム

2020年1月17日

【施 光恒】「スポーツの日」の憂鬱

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

こんばんは~ (^_^)/
遅くなりました。

今年から祝日の「体育の日」が「スポーツの日」に変わります。皆さん、ご存じでしたか?
年が明けて新しい今年のカレンダーを見て、お気づきになった方も多いと思います。

例年、「体育の日」は10月の第二月曜日に設定されていましたが、今年は東京オリンピックの開会式のために、今年の「スポーツの日」は「7月24日」に設定されます。(来年以降は、昨年までの「体育の日」と同様、10月の第二月曜日になりますが、「スポーツの日」という名称は変わりません。)

私は、どうもこの「体育の日」から「スポーツの日」への名称変更、あまり気に入りません。名称変更自体、いいとは思いませんが、それ以上にヤダなと思うのは、この変更の際にほとんど反対意見も出ず、議論されないままに決まってしまったことです。

「スポーツの日」に変えようと動いたのは、国会議員で作る「スポーツ議員連盟」だそうです。彼らが「スポーツの日」のほうが「体育の日」よりもいいと考えた理由は、国会での議論によれば(例えば、第196回国会 参議院文教科学委員会 第15号 平成30年6月12日の議事録)、 主に次の二つです。

一つは、「スポーツ」という語は「世界的に広く用いられている」ゆえ、「世界各国と協調していく観点」から考えても望ましいということです。

もう一つは、「体育」という語は学校教育のイメージが強いためよろしくないということです。

こういう理由に基づき、「体育の日」を「スポーツの日」に改める法案はすんなりと決まってしまいました。私の周囲の人たち数人に尋ねてみましたが、今年から「体育の日」ではなく「スポーツの日」になるということを知らなかった人も多いようでした。

私がこの名称変更、あまりよく思わないのは次のような三つの理由からです。

(1)国民の祝日に、カタカナ語、外来語を使うのはあまり好ましくないのではないか。

一つめの理由は単純です。
国民の祝日に、安易に外来語を使うのは望ましくないのではないかということです。

祝日とは、ある国で国民が皆で顕彰したり、確認したり、次の世代に引き継いでいったりしたいと思う出来事や価値を表すためのものでしょう。単なる休日ではありません。

だとすれば、何が「価値あるもの」であり、次の世代に伝えていきたいものなのか、皆でよく考え、議論していくべきではないでしょうか。

「体育の日」から「スポーツの日」への名称変更では、そうした祝日の意義についての議論はほぼ全くなかったように思います。

「体育」と「スポーツ」は次に述べるように、意味合いが似ているようで違います。「体育の日」から「スポーツの日」に変えるのであれば、もっと国民の間で広く議論すべきだったのではないでしょうか。

例えば、「文化の日」を「カルチャーの日」としたり、「成人の日」を「アダルトの日」としたりすればやはり意味が変わってくるでしょう。私は、「体育」の背景にあるものの見方と、「スポーツ」のほうがいいといいう見方は、だいぶ異なるものだと思います。その見方の変更について、もっと議論すべきだったのではないでしょうか。

(2)「体育の日」を「スポーツの日」に安易に変更することによって、日本人が大切にすべきものの見方が失われてしまうのではないだろうか。

たぶん、「体育」よりも「スポーツ」の方がいいという人は、「「体育」だと何か堅苦しい感じがする。「スポーツ」のほうが気楽で楽しそうでいい」と言うのではないかと思います。

私も実は、そういう感覚、結構わかりますし、共有する部分もあります。

ただ、「体育」を「スポーツ」にしてしまうことによって、抜け落ちてしまうものも数多くあるように思うんですね。そして、抜け落ちてしまうものが実は大切なものではないのかということが、私が今回の名称変更をあまりよく思わない一番の理由です。

その「抜け落ちてしまうもの」ですが、具体的なものでいえば、例えば「武道」です。「体育」では武道も含まれるでしょうが、「スポーツ」だと含まれるのかな?という疑問を多くの人が感じるのではないでしょうか。

実際、柔道や剣道、合気道といった武道は、「スポーツ」の要素もあるでしょうが、それだけでは収まらないものも多いのです。特に、身体を鍛え、ワザを磨くことを通じて、精神や人格を修養することを重視するという部分です。

柔道や剣道、合気道などの日本の伝統的武道だけでなく、近代以降、日本が西洋から受容した競技(野球やサッカー、マラソン、バレーボールなどなど)にも、「身体を鍛え、ワザを磨くことを通じて精神や人格も修養する」という日本の伝統的見方は、少なからず反映されています。

この日本の伝統的なものの見方が、「体育の日」から「スポーツの日」への変更に伴い、抜け落ちてしまうのではないかと私は危惧します。

「文武両道」のものの見方と言ってもいいでしょう。「精神修養や人格成長は、いわゆる机に向かった勉強だけでは達成できない。身体を鍛え、ワザを磨き、動作を整えることもまた、精神修養や人格成長には大切なのだ」という見方です。

こういうものの見方、我々はあまり普段気づきませんが、我々の日常生活の中に結構溶け込んでおり、多くの人が半ば無意識に大切だと思っている事柄だと思います。

例えば、日本の中学校や高校では、部活動を教育の一環として非常に重視します。これは日本独特と言ってもいいものです。

日本の学校では、多くの一般生徒が普通にスポーツや文化活動に打ち込み、学校側も部活動を大切な「教育の一環」であり「人間形成の場」だと捉えますが、これは日本に特有の現象です。

中国や韓国などでは、儒教文化の影響のためか、運動部などの部活動にはあまり重きが置かれず、不活発です。

欧米の学校も、日本とはだいぶ違うようです。日本の運動部の部活動は「一般生徒の教育活動」として特徴づけられますが、米国の部活動は「少数エリートの競技活動」、英国の場合は「一般生徒のレクレーション」だそうです(中澤篤史「学校運動部活動研究の動向・課題・展望──スポーツと教育の日本特殊的関係の探求に向けて」『一橋スポーツ研究』第30巻、2011年)。

精神や人格の修養・成長のためには、机に向かってする勉強だけではなく、各種の部活動のような運動や芸術に親しむことも大いに大切だという見方が、日本の教育観の根底にあります。

まさに「文武両道」の見方ですよね。中国や韓国などの儒教国家では「文」が非常に重視される一方、「武」は軽視されます。日本では、「文」だけでは頭でっかちでよろしくないと考え、「武」も大切にするのです。

この「文武両道」を大切する日本の伝統は、私は大いに大切だと思います。

周知のとおり、日本では伝統的に「職人仕事」「ものづくり」を大切にし、「匠の技」に敬意を払います。こうした「職人仕事」や「ものづくり」を尊重する伝統にも、身体的技芸を軽視せず、その鍛錬は、学問を収めることと同様、人格の成長につながるのだという発想が根底にあるのではないでしょうか。

もっと言えば、行儀作法や礼儀作法、立ち振る舞いの美しさを(あるいは身の回りの整理整頓なども)強調する日本のものの見方の基盤にあるのも、身体的動作の鍛錬や洗練が、精神や人格の修養・成長に結びつくのだという発想ではないかと思います。

さきほど触れたように、「体育の日」を「スポーツの日」に変えてしまいたいという見解の背後には、純粋に、運動をレジャーや娯楽、息抜きとして楽しみたいという見方が結構大きく影響しているようです。

そういう見方もわからなくはないのですが、「文」だけの頭でっかちをバランスの悪いものだと考え、身体の鍛錬や洗練も教育、つまり人格や精神の修養につながると理解する伝統も重要だと思います。つまり、武道に代表されるような「道」の思想を尊び、また「職人仕事」や「ものづくり」「行儀作法」を軽視しない日本の良き伝統も大切です。

「体育の日」ではなく「スポーツの日」にあまり議論せずに変えてしまうことは、「体育」という言葉の背後にあるそうした日本の良き伝統に人々が注意をあまり払わなくなってきているのではないかと思えてきて少々寂しくなります。

ちょっと考えすぎですかね…。
f(^_^; )

(3)日本のものの見方に自信をもち、海外に伝えるという姿勢がみられない。

「体育の日」から「スポーツの日」に変わることについて私がヤダなと思う三番目の理由は、そう変える理由が「スポーツ」という語のほうが海外で広く用いられているからという変更推進派が持ち出した理由の軽々しさです。

私は、頭でっかちを嫌い、身体の鍛錬を通じた精神修養も重視する「文武両道」の見方は、日本で伝統的に強いとしても決して日本だけに特殊なものではなく、海外の人も説明されれば、大いに理解し、共感してくれるものの見方だと思います。

同様に、いわゆる勉強だけではなく部活動なども大切な教育の一環だとみる見方、行儀作法や立ち振る舞いの美しさを重視する価値観、「ものづくり」「職人仕事」などの「匠の技」に敬意を払う態度なども、海外の人も大いに理解し、共感できるものではないでしょうか。

私は、今年の東京オリンピックで世界に発信すべきは、日本のそういう「文武両道」のものの見方だと思います。「オリンピック選手のように身体を鍛え、ワザを磨くことは、日本の武道の伝統が強調するように、精神修養や人格成長にもつながるのだ。スポーツマンシップと似ているが、そうした「修道精神」も大いに重視すべきだ」という考え方です。つまり、いわば「スポーツも「道」なのだ」という見方です。

しかし、東京オリンピックの年である今年に合わせてわざわざ「体育の日」を「スポーツの日」に変更したことからわかるように、現在の日本の政治家は相変わらず「海外のものの見方に日本が合わせるべきだ」、「日本をグローバル標準に適合するよう改革すべきだ」とは考えますが、こちらから発信しようという気構えはまるで持ち合わせないようです。

これも残念なことです。

気が付けば長くなってきました…。
f(^_^; )

おそらく、今年は、世界的に、グローバル化が行き詰まりを見せる年となるのではないかと思います。その先駆けが今月末に予定されているブレグジットです。米国の大統領選挙でも、脱・グローバル化が焦点となるでしょう。

ブレグジット以後の英国では、今後、国の針路をめぐる議論が盛んになるでしょう。おそらくそれは、「今後、英国が大切すべき価値とは何だろうか」といういわばナショナル・アイデンティティをめぐる議論に発展していくと思われます。

日本でもそろそろ、日本人が大切し、今後も受け継いでいくべき価値とは何だろうかという議論をもっと皆でしていくべきでしょう。安倍首相は、憲法改正の議論をすべきだと言っているようですが、それをするためにも、まずは日本人が今後も大切にし、継承していくべき価値とは何かという議論をする必要があるはずです。

長々と失礼しますた…
<(_ _)>

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【施 光恒】「スポーツの日」の憂鬱への3件のコメント

  1. 斑存・不苦労 より

    >「体育」という語は学校教育のイメージが強いためよろしくない

     政府とそれを取り囲む会が自虐的に成ってどうすんじゃいっ!
    ってなもんや3度傘?見えてなりません。オロローン!オロローン!わしゃかなわんわっ!

    どうとでも勝手に都合よく解釈した文句を並べたててろっ!このっ!超スーパー・ウルトラ・マゾヒズムエスタブリッシュメンバー連中がっ!

     私くどくも、また芥川龍之介の作品、河童の題名に添えられていた”どうかKAPPAと読んでください“ の言葉を思い出しました。あの時代も横文字が流行りだしていた時代だったと思い込んでいます。

     口でクチャクチャくっちゃべる分にはいいと思います。がカレンダーにまで日本語を廃除されてしまうと、もう調べようが無くなってしまうのではないでしょうか。思い込んでしまうのですがやっぱりワンワールドへの布石ばかりなのではないでしょうか。
    何が次世代に国の借金のツケを残すなっ!だよっ!最悪の環境を残しまくっているばかりの環境大臣じゃねぇかっ!しかしわっかってくんねぇだろうなっ次世代殺し屋Jr.には。

     失礼しました。フィクションとして書きましたが、どうとでも解釈は自己責任だと思い込んでいます。

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  2. たかっきー より

    体育ー>スポーツ

    過程を疎かにしがち。成果主義の風潮の表れとも言える。
    手段を選ばずあちこちでモラルハザードも。
    恥も外聞もない国になってきたもんだ。
    このままでは恥の文化が消滅してしまう。
    先生、もっと強く発信してください!

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  3. wachtelhund より

    英語の語義では競馬も釣りも狩猟もスポーツに入るし、おフランスでは性行為もスポーツと考えられているらしいから、「スポーツの日」と言われると私などはすっぽんぽんの元気なスポーツ紙を連想する。

    しかしそのおフランスに、英語(外国語)使用に関する規制があることを、何年か前、文化放送の朝の番組で適菜収さんが旅の見聞を交えて紹介していた(94年制定のトゥーボン法)。

    いまやろくに本も読まず、わずか200程度のことばかずで暮らす我々が、選び出した国会議員に対し国語を重んじよと求めるのは、葉牡丹が牡丹になれと迫るくらいおかしな話だが、どの国語にも世代を重ねて来た重みというか霊性がある。その霊性をわざわざ労力を用いて薄めるような活動を見ていると、おフランスより少なくとも25年は遅れていると思わざるを得ない。

    何かを変えることで何かを果たした気になるより、変えなかったこと変えさせなかったことを誇りにしてほしい。まもなく国民の手によって壇ノ浦に追い詰められるであろう構造改革政党の人たちにこれを言ったところで、もはや手遅れかも知れないが。

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