【施 光恒】「筆まめの口達者」に言い負かされないために

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

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【解説】
人口減少で好景気になる理由
https://youtu.be/To6OMrIABwI

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おっはようございまーす(^_^)/

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします<(_ _)>

先月19日の夕方に、<月刊三橋&三橋経済塾>シンポジウム&大忘年会という催しがありました。三橋さん、藤井聡先生、中野剛志さんという本メルマガにいずれも関係の深い方々が「グローバル株主資本主義の恐怖」というテーマで議論するという催しでした。シンポジウム終了後は、懇親会(忘年会)もありました。

そのシンポジウムでの藤井先生の一つのご発言が非常に印象的でした。それは、主張を伝え、広めるためには、当然ながら多弁さも必要であるということでした。

当然と言えば当然のことなのですが、「主張の正しさ」「正確さ」だけでは、なかなか広まらず、世の中に影響を与えるのには至らない場合が多いのですね。

例えば、デフレ脱却のためには公共事業など積極的な財政出動が必要だという見解や、国土強靭化の必要性など、藤井先生が常日頃、おっしゃっていることは、きちんとデータや理論で裏付けられる正しいものなわけですが、残念ながら、それだけではなかなか広まりません。

三橋さんもよく論じていらっしゃるように、多くの人がもっている通俗的な思い込み(「ドミナント・ストーリー」)を変えるのは心理的抵抗が強くなかなか難しいのです。人は、一度、信じ込んでしまい、そしてそれがマスコミや権威があると思われている学者などから毎日のように繰り返し発せられると、その思い込みが強化されてしまいますので。

主張の正しさはもちろん大切ですが、それだけでは、世の論調はなかなか変わらない。俗説に負けぬよう、真っ当な議論を繰り返し、多弁に語っていくこともまた重要である。藤井先生はそうした趣旨のことを語っていらっしゃいました。

私も同感です。少し角度は違いますが、似たようなことを考えていました。

日本人は、伝統的に、定住型で平和な社会に暮らしてきたためか、言語的自己主張をあまり高く評価しません。「沈黙は金」「巧言令色 すくなし仁」、あるいは「背中で語る」といった具合に、日本には、「言挙げ」、つまり言葉に出して言い立てることを好まない傾向があります。

私の本来の専門は欧米の政治理論や政治哲学ですが、この分野の本や論文を読んでいると、いつも、「欧米文化の人々は本当に多弁で議論好きだな」と感じます。自分たちの考え方を常に厳密な言葉で言い表し、理論化し、その正しさを周囲に主張していこうとするエネルギーがすごいんですね。

他方、欧米に比べると、日本では、頭でっかちで理屈っぽい理論や哲学はあまり発展しませんでした。それよりも、武道や芸道などのように、実際に何らかの行為を通じて自己を高めていく「修行」的なものが好まれ、こちらのほうが発展してきました。
 
私は、日本文化の「言挙げ」を好まない側面は好きですが、近年は、この側面がまずい事態を招く場合も結構あるように感じています。

日本人は、自分たちの価値観や道徳意識、美的感覚などを厳密に言語化したり、それを主張したりすることをあまりしてきませんでした。特に、戦後は、GHQの戦後検閲の影響もあるのか、「日本的価値」とか「日本的美意識」などというと「ウヨクだ~」などと周囲から言われそうな雰囲気が少なからずあることもあり、戦後の日本人は自分たちの価値観や道徳意識を精緻に言語化したり、理論化したりしてきませんでした。

私は、近年、この努力の欠如のため、我々の生活に悪影響が及ぶことが増えてきているのではないかと思います。

具体的には、「改革」に関してです。ここ20年ほど、日本の政治は、ずっと、カイカク、カイカクと叫び続けてきました。
( ゚∀゚)o彡カイカク! カイカク!

そして「グローバル化」のために必要だからなどといって、社会や経済のさまざまな制度や慣行を実際にアメリカ型に変えてきました。

しかし、この改革続きの政治の結果、我々の生活が良くなったかというと、かなり多くの人が「かえって悪くなったのでは…」と感じているのではないでしょうか。改革をすればするほど、逆に閉塞感が高まってくる――。そう感じている人が少なくないようです。
(´・ω・`)

この原因の一つに、日本人が自分たちの価値観や道徳感覚をあまりきちんと言語化したり、理屈で裏付けたりしてこなかったことがあると思うのです。

普段の生活では、そうした価値観や感覚などをわざわざ言語化する必要はあまりありません。日本人同士なら、共有しているものが多いので、ことさら言い立てなくてもいいからです。

ただ、昨今のように、「改革」の必要性が常に叫ばれ、実際に「改革」が行われるような場面では、日本人の日常の価値観や道徳感覚が十分言語化されてこなかったため、「改革」の目標は、どうしても外来のものに、特に戦後日本で影響力の強いアメリカ的なものになってしまう傾向があります。

「個人の自由」とか「選択」、「自己責任」「グローバル化」「多様性(ダイバーシティ)」「民主主義」「多文化共生」「挑戦」「起業家精神」などといったどこかアメリカっぽい言葉が、「改革」の理念や目標になってしまいます。

京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、戦後日本社会は、「二重言説」の社会だと表現しています。

戦後の日本では、マスコミや学者、評論家が広く用い、喧伝するアメリカ的で「普遍的な」理念が「公式的」なもの、つまり大ぴっらに公の場で語ることができるものとなった。その一方、我々日本人の日常の価値観や生活感覚や美意識といったものは「公式的」にはあまり表明されず、「非公式な」文化や慣習として潜在化を余儀なくされているというのです(佐伯啓思『従属国家論』PHP新書、2015年、第二章)。

この点について、佐伯氏は、2001年に出版された本の中でも興味深いことを記しています(『国家についての考察』飛鳥新社)。

90年代半ばぐらいから始まった構造改革路線について、政治家や財界人、マスコミ、評論家は、「公式的」には、おしなべて賛成を表明しました。構造改革に対する反対論はほとんど表に出ず、改革論の正しさは「公的」には既定事実となりました。

だが、佐伯氏によれば、改革論を支持していると思われる人々でも、佐伯氏との個人的な会話の中では、実際には改革論に疑問を持っている場合が少なからずあったというのです。。

佐伯氏の本から、端折りつつ、引用してみます。

「… 一見したところ改革論に与しているように見えるかなりの人々、あるいはそうした立場にあるはずの人々が、個人的な話の中では実際には改革論に疑問を持っているのである。新聞記者やジャーナリスト、財界人など、多くの人たちが、私の疑義に共感を示してくれた。改革を唱えるエコノミストでさえ、日本的経営に支えられた日本の製造業の強さについては疑いを入れず、非公式の場所では、日本型経営は決して時代遅れだとは言えない、などという。(略)

ましてや、「一般庶民」を代表する地方の小企業主や自営業者、サラリーマンは、決して改革論に賛意を示しているわけでもない。例えば97年の電通総研のアンケート調査でも、あの規制緩和の大合唱にもかかわらず、実際に規制緩和を支持している者の割合は20パーセントに過ぎないのである。(略)

実は、かなりの者、それも一見、改革論に近い立場にいる者さえもが、改革には疑問を持っていたりするのである。

それにもかかわらず、これらの声は決して世論という言説の表面には現れ出ない。(略)つまり、私が個人的にあちこちで聞いた声はあくまで「非公式」なものにとどまっており、決して「世論」には反映されない。「公式」には改革論の正しさが既定事実になってしまっているのである」(『国家についての考察』、136~137頁)。

このような事態が生じる大きな理由は、やはり、我々の日常の価値観や道徳意識、美意識といったものが十分に言語化されたり、理論化されたりしておらず、その一方で、「グローバル化」や「個人の自由」「選択の自由」といったアメリカ的理念が、有力なメディアや論者から繰り返し発信されているからでしょう。

日本人は、自分たちが拠って立つ価値観や道徳を十分に意識化し、言語化してこず、半ば無意識なものに留めてしまってきたため、「改革」という意識的な場面では、どうしても、繰り返し語られ、流通しているアメリカ的理念に引きずられてしまうのです。

これ、まずいですよね。結果的に、「改革」をすればするほど、多くの日本人にとって暮らしにくい、居心地の悪い社会ができてしまうわけですから。

民俗学の祖である柳田国男は、かつて日本人の死生観を語る文脈で、日本の伝統と外来宗教の教理との区別を明晰化していかない日本人の態度について嘆きました(『先祖の話』、1946年)。

柳田は、日本では、自分たちの伝統的な死生観と外来宗教の教理との「二つを突き合わせてどちらが本当かというような論争はついに起こらずに、ただ何となくそこを曙染のようにぼかしていた」と指摘します。このままでは、外国人の主張に、日本人の側が押されてしまい、日本人は自分たちを見失ってしまうのではないかと柳田は危惧します。

そして次のように書いています。

「なぜかというと向うは筆豆の口達者であって、書いたものがいくらでも残って人に読まれ、こちらはただ観念であり古くからの常識であって、もとは証拠などの少しでも要求せられないことだったからである」。

柳田のこの懸念は、日本人の現状にも大いに当てはまるでしょう。米国をはじめとする外国人の多弁さに圧倒され、指導的立場の者を含む多くの日本人が、自分たちの拠って立つべき価値を見失い、自他の区別がつかない状況に陥っているように思います。

私は、日本が、アメリカのように、自己主張を美徳とする社会になってほしいとは決して思いません。ですが、日本人自身が、日本的価値観や道徳意識、美意識などをきちんと意識化し、言語化し、その意義を知的に認識する必要は現代では大いにあると思います。そして必要とあれば、それを外国に対してしっかりと説明できたほうがいいと考えます。

そうしないと、「筆まめの口達者」であるアメリカ人をはじめとする外国人に言い負かされたり、彼らの価値理念を自分たちのものと取り違えたりすることが頻発すると思うからです。

今年は、多くの日本人が、半ば無意識に抱いている価値観や道徳観、美意識といったものを、明瞭に言語化し、理論化し、その意義を解明していくような仕事をしたいと願っています。

何か年頭の誓いのようになってしまいました。
長々と失礼しますた…
<(_ _)>

—メルマガ発行者より

【解説】
人口減少で好景気になる理由
https://youtu.be/To6OMrIABwI

7 thoughts on “【施 光恒】「筆まめの口達者」に言い負かされないために

  1. カイカクという名の
    革命♪

    小泉元総理や安倍総理は
    革命家である と
    ぼくは 認識しております。

    「ぶっこわす」や「ドリルでの破壊」が
    大好きなようですから、、、

    ちなみに 革命によって
    幸せになった国民国家を寡聞にして
    ぼくは存じません。

    そして 日本語、、
    漢語から いわゆる日本語が
    独立できたのは
    女手(ひらかな)を用いた古今和歌集による
    と ある書家(石川九揚)が仰ってました。

    古今和歌集、、、情緒に訴えるには最適ですが
    理論的な香りは 全くしませんね。。。

    さて 言語戦争に勝利するためには
    どうするか??

    対内的には 敵が成果を証明している
    言語の すり替え
    革命をカイカク と称したり
    政府の負債を 国の借金と 言い替えて
    国民の情緒に訴える手法が 効果的かも。

    対外的には
    情緒敵言語の女手を捨てて 
    論理的言語の男手(漢語)によって原案を練り それを
    欧米言語で表現する方法

    端から 英語などで思考するよりは
    その方が日本人(土着)の性にあっているのでは? 

    ぼくは 考えているのだ♪

  2. >美的感覚などを厳密に言語化したり、それを主張したりすることをあまりしてきませんでした。

     最近読んでいる本に
    ”最近の本にはいい叙景文がない。景色とか見たものを文章にするトレーニングを子どもの頃にしていないんじゃないか。それを国語学会で言ったら、昭和30年代に国語の教育から叙景文を消した、と誰かが言っていました。
    乱暴に言うとテレビと関係してるかもしれない、つまり景色を文章にするより写してしまえば早い。“(原文を省略しました)
    とありました。

     (私なんぞが言えるわけではござんせんが)なんか関係している話のようにも思えました。
    戦後、ハイテクの波に揉まれる中、国語教育からキリステ教のようなモノに呑まれてきてしまったのでしょうか。

    それでミッキー谷のような、英語化はマストです、なんて言う戦後ビジネス教世代を膿み出してきてしまった。

    支離滅裂なコメントですね。失礼しますた。    

  3. 日本人の課題は、「私」というか、公民意識国民意識個人意識、
    その全てを持った自己主体の確立でございます。
    主語が「私」でない論は大体にして他人事を語っている事が多い。
    私人性という話ではなくて、人間としての自己主体を知らぬ間に欠いてしまう。
    私という語を主語として扱い、その責任と義務を引き受けないから、
    物事と正面から向き合えんのです。

    アイデンティティが無いのですよね、日本人には。

  4. 価値観、道徳観、美意識、いずれもふわっとしていて誰にもわかりやすく説くのは難しいもの…
    そしていつの世も、どこでも声の大きさで何かが決まってしまうもの…
    職場というほんの小さい世界ですら、傍若無人がまかり通るのです。
    白ネコは体が弱くて寿命が短く、キレイなもの、希少価値のあるものほど淘汰されていくのが自然の流れです。
    動物学的にも証明されているようです。人間も同じ。以前読んだ本で説かれていました。
    大きな流れを変えるにはそれこそ人知を超えた天変地異で多くの人間がいなくなることくらいしか方法は無いのかもと諦めています。
    選挙で変えられないのですから。
    年頭から暗いコメントですみません。

    本を出されるのでしたら、誰もが手にとってみたくなるような、わかりやすい、文字が大きめで読みやすいものを希望します。

  5. インチキ言論に惑わされないようにするには実はロシア語やペルシア語などの英語以外の言語に目を向けることが重要ではないだろうか?
    英語圏の発信する情報が世界規模で反乱し、それが多数派になるようなご時世だから英語以外で勝負できるような考えも必要だと思います。
    で、ロシア語やペルシア語の書物を日本語に変換してそれを解釈して発信することはインチキ新自由主義や英語圏留学するよりも意義があると思います。

    英語圏の連中(特にアメリカ人)は非英語圏で喋られるのを嫌がるはずであり、ロシア語、ペルシア語などの反米国家の言語を学べば確実にアメリカを脅威になるような内容も得られる。

    Ни хочу в Английский.
    このロシア語を和訳すると
    「英語は不要である。」

  6. 施先生明けましておめでとうございます本年もよろしくお願いします。
    日本の文化は諸外国と文化は違います。諸外国より優れてる面は一杯あると思いますが。対外国人や筆まめの口達者の人に日本の伝統や文化は古いんだよ良くないんだよ言われるとああそうなのかと言い負かされちゃう事があって言い負かせると相手の事が正しいと思ってしまう錯覚になってしまうんですよね。
    佐伯京大教授が言う個人的にはおかしいと思ってもメディアとかその場の空気に支配されてしまうというのはあると思います。しかしそうであっても
    日本の伝統や文化大事にしていきたいと思いますし。それを言葉にして
    形にして何が日本文明かとか本居宣長が具現化したような事も大事な要素だと思います。

  7. >今年は、多くの日本人が、半ば無意識に抱いている価値観や道徳観、美意>識といったものを、明瞭に言語化し、理論化し、その意義を解明していくよう>な仕事をしたいと願っています。

    こういう本当に必要で地道な仕事をする学者は、減ってきていますね。グローバル化だの、ボーダーレス時代などと怪しげな概念を振り回して時代の波に乗りたがる人ばかり目立ちます。
    私も長年、日本の手工業文化を調べてますが、知れば知るほどその底の深さに驚嘆させられます。幕末明治期になって急に日本が工業化できたのも、技術についての基本的な素地があったからなのが、よく分かります。残念ながら、そういう技術の殆どが、消滅ないし消滅の危機に瀕しています。国の保護を望みたいところですが、難しいでしょうね。

    同様に、口だけで国や大阪を危うくしかけている輩がいます。本当に口先だけです。あんな者に大阪府市民が騙されるとは、不思議な限りです。マスメディアの情報操作のおかげであると思います。
    私もこの二点を主軸に、よい日本を守ることを考えていきたいと思っています。

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