【施 光恒】「筆まめの口達者」に言い負かされないために

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

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【解説】
人口減少で好景気になる理由
https://youtu.be/To6OMrIABwI

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おっはようございまーす(^_^)/

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします<(_ _)>

先月19日の夕方に、<月刊三橋&三橋経済塾>シンポジウム&大忘年会という催しがありました。三橋さん、藤井聡先生、中野剛志さんという本メルマガにいずれも関係の深い方々が「グローバル株主資本主義の恐怖」というテーマで議論するという催しでした。シンポジウム終了後は、懇親会(忘年会)もありました。

そのシンポジウムでの藤井先生の一つのご発言が非常に印象的でした。それは、主張を伝え、広めるためには、当然ながら多弁さも必要であるということでした。

当然と言えば当然のことなのですが、「主張の正しさ」「正確さ」だけでは、なかなか広まらず、世の中に影響を与えるのには至らない場合が多いのですね。

例えば、デフレ脱却のためには公共事業など積極的な財政出動が必要だという見解や、国土強靭化の必要性など、藤井先生が常日頃、おっしゃっていることは、きちんとデータや理論で裏付けられる正しいものなわけですが、残念ながら、それだけではなかなか広まりません。

三橋さんもよく論じていらっしゃるように、多くの人がもっている通俗的な思い込み(「ドミナント・ストーリー」)を変えるのは心理的抵抗が強くなかなか難しいのです。人は、一度、信じ込んでしまい、そしてそれがマスコミや権威があると思われている学者などから毎日のように繰り返し発せられると、その思い込みが強化されてしまいますので。

主張の正しさはもちろん大切ですが、それだけでは、世の論調はなかなか変わらない。俗説に負けぬよう、真っ当な議論を繰り返し、多弁に語っていくこともまた重要である。藤井先生はそうした趣旨のことを語っていらっしゃいました。

私も同感です。少し角度は違いますが、似たようなことを考えていました。

日本人は、伝統的に、定住型で平和な社会に暮らしてきたためか、言語的自己主張をあまり高く評価しません。「沈黙は金」「巧言令色 すくなし仁」、あるいは「背中で語る」といった具合に、日本には、「言挙げ」、つまり言葉に出して言い立てることを好まない傾向があります。

私の本来の専門は欧米の政治理論や政治哲学ですが、この分野の本や論文を読んでいると、いつも、「欧米文化の人々は本当に多弁で議論好きだな」と感じます。自分たちの考え方を常に厳密な言葉で言い表し、理論化し、その正しさを周囲に主張していこうとするエネルギーがすごいんですね。

他方、欧米に比べると、日本では、頭でっかちで理屈っぽい理論や哲学はあまり発展しませんでした。それよりも、武道や芸道などのように、実際に何らかの行為を通じて自己を高めていく「修行」的なものが好まれ、こちらのほうが発展してきました。
 
私は、日本文化の「言挙げ」を好まない側面は好きですが、近年は、この側面がまずい事態を招く場合も結構あるように感じています。

日本人は、自分たちの価値観や道徳意識、美的感覚などを厳密に言語化したり、それを主張したりすることをあまりしてきませんでした。特に、戦後は、GHQの戦後検閲の影響もあるのか、「日本的価値」とか「日本的美意識」などというと「ウヨクだ~」などと周囲から言われそうな雰囲気が少なからずあることもあり、戦後の日本人は自分たちの価値観や道徳意識を精緻に言語化したり、理論化したりしてきませんでした。

私は、近年、この努力の欠如のため、我々の生活に悪影響が及ぶことが増えてきているのではないかと思います。

具体的には、「改革」に関してです。ここ20年ほど、日本の政治は、ずっと、カイカク、カイカクと叫び続けてきました。
( ゚∀゚)o彡カイカク! カイカク!

そして「グローバル化」のために必要だからなどといって、社会や経済のさまざまな制度や慣行を実際にアメリカ型に変えてきました。

しかし、この改革続きの政治の結果、我々の生活が良くなったかというと、かなり多くの人が「かえって悪くなったのでは…」と感じているのではないでしょうか。改革をすればするほど、逆に閉塞感が高まってくる――。そう感じている人が少なくないようです。
(´・ω・`)

この原因の一つに、日本人が自分たちの価値観や道徳感覚をあまりきちんと言語化したり、理屈で裏付けたりしてこなかったことがあると思うのです。

普段の生活では、そうした価値観や感覚などをわざわざ言語化する必要はあまりありません。日本人同士なら、共有しているものが多いので、ことさら言い立てなくてもいいからです。

ただ、昨今のように、「改革」の必要性が常に叫ばれ、実際に「改革」が行われるような場面では、日本人の日常の価値観や道徳感覚が十分言語化されてこなかったため、「改革」の目標は、どうしても外来のものに、特に戦後日本で影響力の強いアメリカ的なものになってしまう傾向があります。

「個人の自由」とか「選択」、「自己責任」「グローバル化」「多様性(ダイバーシティ)」「民主主義」「多文化共生」「挑戦」「起業家精神」などといったどこかアメリカっぽい言葉が、「改革」の理念や目標になってしまいます。

京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、戦後日本社会は、「二重言説」の社会だと表現しています。

戦後の日本では、マスコミや学者、評論家が広く用い、喧伝するアメリカ的で「普遍的な」理念が「公式的」なもの、つまり大ぴっらに公の場で語ることができるものとなった。その一方、我々日本人の日常の価値観や生活感覚や美意識といったものは「公式的」にはあまり表明されず、「非公式な」文化や慣習として潜在化を余儀なくされているというのです(佐伯啓思『従属国家論』PHP新書、2015年、第二章)。

この点について、佐伯氏は、2001年に出版された本の中でも興味深いことを記しています(『国家についての考察』飛鳥新社)。

90年代半ばぐらいから始まった構造改革路線について、政治家や財界人、マスコミ、評論家は、「公式的」には、おしなべて賛成を表明しました。構造改革に対する反対論はほとんど表に出ず、改革論の正しさは「公的」には既定事実となりました。

だが、佐伯氏によれば、改革論を支持していると思われる人々でも、佐伯氏との個人的な会話の中では、実際には改革論に疑問を持っている場合が少なからずあったというのです。。

佐伯氏の本から、端折りつつ、引用してみます。

「… 一見したところ改革論に与しているように見えるかなりの人々、あるいはそうした立場にあるはずの人々が、個人的な話の中では実際には改革論に疑問を持っているのである。新聞記者やジャーナリスト、財界人など、多くの人たちが、私の疑義に共感を示してくれた。改革を唱えるエコノミストでさえ、日本的経営に支えられた日本の製造業の強さについては疑いを入れず、非公式の場所では、日本型経営は決して時代遅れだとは言えない、などという。(略)

ましてや、「一般庶民」を代表する地方の小企業主や自営業者、サラリーマンは、決して改革論に賛意を示しているわけでもない。例えば97年の電通総研のアンケート調査でも、あの規制緩和の大合唱にもかかわらず、実際に規制緩和を支持している者の割合は20パーセントに過ぎないのである。(略)

実は、かなりの者、それも一見、改革論に近い立場にいる者さえもが、改革には疑問を持っていたりするのである。

それにもかかわらず、これらの声は決して世論という言説の表面には現れ出ない。(略)つまり、私が個人的にあちこちで聞いた声はあくまで「非公式」なものにとどまっており、決して「世論」には反映されない。「公式」には改革論の正しさが既定事実になってしまっているのである」(『国家についての考察』、136~137頁)。

このような事態が生じる大きな理由は、やはり、我々の日常の価値観や道徳意識、美意識といったものが十分に言語化されたり、理論化されたりしておらず、その一方で、「グローバル化」や「個人の自由」「選択の自由」といったアメリカ的理念が、有力なメディアや論者から繰り返し発信されているからでしょう。

日本人は、自分たちが拠って立つ価値観や道徳を十分に意識化し、言語化してこず、半ば無意識なものに留めてしまってきたため、「改革」という意識的な場面では、どうしても、繰り返し語られ、流通しているアメリカ的理念に引きずられてしまうのです。

これ、まずいですよね。結果的に、「改革」をすればするほど、多くの日本人にとって暮らしにくい、居心地の悪い社会ができてしまうわけですから。

民俗学の祖である柳田国男は、かつて日本人の死生観を語る文脈で、日本の伝統と外来宗教の教理との区別を明晰化していかない日本人の態度について嘆きました(『先祖の話』、1946年)。

柳田は、日本では、自分たちの伝統的な死生観と外来宗教の教理との「二つを突き合わせてどちらが本当かというような論争はついに起こらずに、ただ何となくそこを曙染のようにぼかしていた」と指摘します。このままでは、外国人の主張に、日本人の側が押されてしまい、日本人は自分たちを見失ってしまうのではないかと柳田は危惧します。

そして次のように書いています。

「なぜかというと向うは筆豆の口達者であって、書いたものがいくらでも残って人に読まれ、こちらはただ観念であり古くからの常識であって、もとは証拠などの少しでも要求せられないことだったからである」。

柳田のこの懸念は、日本人の現状にも大いに当てはまるでしょう。米国をはじめとする外国人の多弁さに圧倒され、指導的立場の者を含む多くの日本人が、自分たちの拠って立つべき価値を見失い、自他の区別がつかない状況に陥っているように思います。

私は、日本が、アメリカのように、自己主張を美徳とする社会になってほしいとは決して思いません。ですが、日本人自身が、日本的価値観や道徳意識、美意識などをきちんと意識化し、言語化し、その意義を知的に認識する必要は現代では大いにあると思います。そして必要とあれば、それを外国に対してしっかりと説明できたほうがいいと考えます。

そうしないと、「筆まめの口達者」であるアメリカ人をはじめとする外国人に言い負かされたり、彼らの価値理念を自分たちのものと取り違えたりすることが頻発すると思うからです。

今年は、多くの日本人が、半ば無意識に抱いている価値観や道徳観、美意識といったものを、明瞭に言語化し、理論化し、その意義を解明していくような仕事をしたいと願っています。

何か年頭の誓いのようになってしまいました。
長々と失礼しますた…
<(_ _)>

—メルマガ発行者より

【解説】
人口減少で好景気になる理由
https://youtu.be/To6OMrIABwI

【施 光恒】民主主義の終わり

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

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【解説】
人口減少で好景気になる理由
https://youtu.be/To6OMrIABwI

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おっはようございま~す(^_^)/

前回のメルマガ記事では、大筋合意が得られたTPPの条文(暫定案文)に日本語訳がないことを問題にしました。また、TPPの正文は、英語、スペイン語、フランス語であり、日本語が入っていないことも指摘しました。

去る12月3日の衆議院の審議(内閣・農林水産連合審査会)で、ほぼ同様のことを、福島伸享議員(民主)が取り上げています。

福島議員と甘利明大臣のやりとりが大変興味深いので、下記のリンク先の動画をぜひご覧ください。

「衆議院TV インターネット中継」(2015年12月3日(木)、上から七番目の福島伸享議員の質疑。TPP案文の翻訳に関することは、福島議員の質疑開始の5分30秒後あたりから12分後ごろまで。甘利大臣の答弁は8分後あたりから。)
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=45355&media_type=wb

まず、福島議員が、「概要だけではなく、TPP案文全文の日本語訳を公開するのか、しないのか」について尋ねます。

すると甘利大臣は、だいたい、次のように回答します。

「英語っていうのは世界共通語でありますから、この種の条約をするときにはですね、日本とどこかの国の二国間協定でも日本語が使われない場合がある。TPP協定の場合は、正文は英語、スペイン語、フランス語だが、解釈問題が生じたときは英語が優先するということになっています。ですから、スペイン語、フランス語でやってもですね、この主張がこうだとおっしゃっても、英語が優先することになっております」。

つまり、甘利大臣は、質問をはぐらかし、そのうえで「TPP協定の条文解釈権は英語のみにある」ということを強調します。

甘利大臣の答弁は、質問に対する回答になっておりませんので、福島議員はあらためて下記のように質問します。

「TPP域内では日本のGDPは非常に大きい。日本語を正文に加えるべきだという交渉をなぜしないのか。正文にしないというのなら、仮訳でもいいから、なおさらすぐに日本語に翻訳して、国民的議論を巻き起こすのが日本国の政治家としての役割ではないか」。

再び答弁に立った甘利氏は、「日本語訳についてはTPP協定が署名されてから出す」と述べたのち、さきほどと同じことを繰り返します。

「例えば、(TPP条文の)フランス語と英語の解釈が違ってきた場合には、英語が優先するんですよ、これは。どういう解釈の違いだと競った時には、英語が優先するんですよ。これは大事な話ですよ、本当に」。

このように、「解釈権は英語にあるのだ」と繰り返す甘利氏の回答は、まとはずれな印象を与えるものです。TPPの案文だけでなく、甘利氏の言葉も翻訳が必要なようです。たぶん甘利氏は、以下のように言いたいのでしょう。

「英語は、世界共通語である。フランス語やスペイン語が英語と並んで正文に加えられる一方、日本語がそうならなかったからといってフランス語やスペイン語を羨んだり、日本語が正文から落ちたことで私を責めたりしてはならない。フランス語やスペイン語が正文に加えられたと言っても、解釈権は世界共通語たる英語にあるのであり、実質上、フランス語やスペイン語も日本語と変わらないのだから」。

甘利氏のこの発言、大変情けないと思います。

特に、「英語が世界共通語である」などと、日本の責任ある政治家がすんなりと認めてしまっていいのでしょうか。

ビジネスマンの発言ならまだ理解できます。しかし、政治家は、それも「国家百年の計」たるTPP交渉を指揮する政治家が、「英語が世界共通語である」と公言してはばからないのは大問題です。

確かに、現在の世界では、事実上、ビジネスや政治の言葉として英語は大いに優勢です。ですが、いうまでもなく、これは、日本をはじめとする非英語国の国民に一方的に不利な立場を押し付ける不当な、公正ではない世界のあり方です。

だからこそ、TPP交渉を指揮する政治家や、実際に交渉に当たる官僚は、「せめてTPP域内では、日本人が活躍しやすい場を作り出してみせる! 日本語や日本の商慣習がなるべく認められ、日本人がなじみやすく能力を発揮しやすい環境を実現するぞ! 日本企業や日本人の海外進出が少しでも楽になるように後押しするのだ!!」というぐらいの気概をもつべきだったのではないでしょうか。

TPP域内では、日本は、アメリカと並んで圧倒的な経済大国です。こうした主張をしてもまったくおかしくなかったはずです。

それなのに、最初から、「英語は世界共通語だから」と言っているようでは、ハナから交渉になりません。

くわえて、TPP条文の最終的な解釈は英語条文に依拠するということも、これも、日本など非英語国にとっては、非常に不利なことです。この不利益も、もっと強く意識し、他の非英語国と連携のうえ是正できなかったのでしょうか。

TPP条文は、今後、法的には、日本の国内法よりも上位に来ます。我々の生活を律するかなり多くのルールが、我々の日常感覚では判別できない英語の微妙な解釈に左右される恐れが出てくるわけです。これは民主主義の観点から、とてもまずい状況です。

日本語も正文として認めさせ、そして正文として認められた言語には、それぞれ同等の解釈権を付与すべきだ、と主張し、交渉するべきでした。

11月20日付の三橋さんのブログでも引用されていましたが、『日本農業新聞』の記事(2015年11月19日付)の伝えるところによると、外務省の担当者は、TPP交渉で「日本が日本語を正文にしろと提起したことはない」とあっさり認めています。

外務省は以前、日本語が正文に含まれないことについて、日本がTPP交渉に遅れて参加したことを理由に挙げていました。しかし、これはその場しのぎの言い逃れだったようです。日本と同様、後から参加したカナダは、ケベック州などの国内の一部でしか使われていないフランス語も、正文として認めさせました。

矛盾を突かれた外務省は、『日本農業新聞』のこの記事によれば、フランス語話者に配慮することは「カナダには政治的に非常に重要な課題だ。日本語をどうするかという問題とは文脈が違う」と言い放ったそうです。ひどい話ですよね。

現在の日本の指導者層の人々は、悲しいかな、ホント「内弁慶」ではないでしょうか。国内では「若い人は内向きでけしからん!」「グローバル化の時代だから、これからは中小企業も外に打って出ろ!」「攻めの農業だ!!」などと、とても勇ましく国民を煽るのに、国際交渉では、将来の日本人の生活を大いに左右する言語の問題であっても、やすやすと譲ってしまいます。
(-_-;)

TPP条文の日本語訳の公開は、結局、甘利氏が述べているように、TPP協定の署名後になるようです。それまでは、国会議員を含む大多数の日本人は、TPPの全容を理解するためには、難解な法律用語からなる膨大な英文を読み込まなければなりません。大多数の日本人にとって、TPP条文の全容を把握し、吟味することは、実際上、非常に困難です。TPPの内容に関し、十分な国民的議論ができるわけがありません。

そして、TPP条文の日本語全訳がやっと公開されたあかつきには、政府は、まず間違いなく、今度は次のように言って国内の異論を封じるのでしょう。

「TPPの内容については、これはもう国際的に決まったことだから、つまり、いわば『国際公約』なのだから、いまさら覆すことはできない。 他の交渉参加国に迷惑をかけるわけにはいかない!」

このようにして、日本国内の制度や政策は、十分な民主的審議を経ることなく、グローバルな投資家や企業にのみ有利な形にどんどん変えられていくのでしょう。

ほんと、ヤレヤレですね…
(´・ω・`)

長々と失礼しますた…
<(_ _)>

〈施 光恒からのお知らせ〉
●12月12日(土曜日)に福岡のカフェで開催されるこじんまりとした勉強会の講師を務めます。
前回と同様、「グローバル化が損なう日本の活力」というテーマで話します。今回は特に、自由民主主義の政治の基礎には、ナショナルなもの(国民の連帯意識や国や社会に対する愛着の念)が必要ではないかというような話をしようと考えています。
お近くの方はぜひお越しください。
日時:12月12日(土)午前10時半~12時
「第9回 学ぶカフェ」
場所:箱崎水族舘喫茶室(福岡市東区箱崎1-37-21)
http://www.hakosui.net/
JR鹿児島本線 箱崎駅 徒歩8分、または地下鉄箱崎線 箱崎宮前駅 徒歩7分
会費:1000円(学生500円)(飲食代別)
問い合わせ先:学ぶカフェ事務局
manabucafe@gmail.com

●昨日の『夕刊フジ』(『ZAKZAK』)に、拙著『英語化は愚民化』についての記事が掲載されていました<(_ _)>。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20151210/dms1512101542014-n1.htm

—メルマガ発行者より

【解説】
人口減少で好景気になる理由
https://youtu.be/To6OMrIABwI

【施 光恒】「上級国民」による政治?

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

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【11月18日まで】期間限定プレゼンテーション
マスコミの言わない不都合な真実
http://keieikagakupub.com/lp/mitsuhashi/38NEWS_C5_100_mag_3m.php

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おっはようございま~す(^_^)/

TPPについて政府は、どうも逃げの一手のようですね。
ここ数日、話題になっていますが、臨時国会、結局、開催しないようです。

臨時国会召集見送りへ、週内にも判断=政府・与党筋(ロイター、2015年11月12日)
http://jp.reuters.com/article/2015/11/12/extraordinary-diet-idJPKCN0T103320151112

リンク先のロイターの伝えるところによると、政府は、11月10日、11日の二日間に開催した衆参両院での「閉会中審査」で、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)などをめぐる議論は「出尽くした」と判断したとのことです。

臨時国会を開かないのは、2005年以来10年ぶりですので、とても稀なことです。上記のように、政府は、「議論は出尽くした」とか、あるいは「わざわざ臨時国会を召集までして議論するテーマがない」「安倍首相の外遊が多く、日程が合わない」なとど言っています。

これ、残念ながら国民軽視、民主主義軽視ですよね。
(-_-;)

TPPは、先月初めに「大筋合意」に至りましたが、合意内容や、TPPが国民生活に及ぼす影響など、不透明なことばかりです。また、自民党が、2012年12月の衆議院選挙のときに掲げていた公約は守られていないように見えますが、その検証の必要も大いにあるでしょう。

どう考えても、臨時国会を召集して、大筋合意の内容や国民生活への影響についてきちんと説明すべきです。

また、TPP問題に詳しい弁護士・岩月浩二氏が、最近、ご自身のブログで指摘していますが、政府は、合意された条文(「暫定案文」)をきちんと翻訳していません。日本語では大幅に短縮された「概要」が読めるだけです。

(岩月浩二氏のブログ『街の弁護士日記』の2015年11月8日付の記事「政府は日本語訳を開示せよ TPP「暫定案文」」)
http://moriyama-law.cocolog-nifty.com/machiben/2015/11/post-8876

「暫定案文」の全体は、2000頁以上あると言われていますが、日本語訳された「概要」は97頁しかありません。政府のHPには、「暫定案文」については、ニュージーランド政府のホームページに英語で全体が出ているからそちらを参照せよとリンクが貼ってあるだけです。

(内閣官房「TPP政府対策本部」のHP「TPP協定暫定案文等の公表について」)
http://www.cas.go.jp/jp/tpp/tppinfo.html#201511kyoutei_zanteiban

これもおかしいですよね。TPPについてきちんと国民に説明する気がないとしか思えません。

「暫定案文」全体を、正確かつ読みやすい日本語に翻訳し、公開するというのが、TPPをめぐる国民的議論を深める大前提ですが、政府は、それを怠っています。

先日発表された今年の「流行語大賞」の候補なかに、「上級国民」という言葉がありましたが、「これからの政治は、英語が達者な「上級国民」だけで決めるから、一般国民はだまっとけ」ということなのでしょうかね。
(+_+)

日本語訳ができていないということは、おそらく、おおかたの日本の国会議員も、自分の関心のある分野であっても、「暫定案文」にほとんど目をとおしておらず、理解もしていないでしょう。

また、岩月弁護士のブログでも指摘されていますが、TPPの正文は、英語とスペイン語とフランス語となるようです。日本語は、排除されます。これも大問題だと思います。

経済規模からみて、日本は、TPP域内で米国に次ぐ第二位の地位を占めています。なぜ、日本語が排除されてしまっているのでしょうか。政府は、「日本語も正文に含めるべきだ」という当然の交渉をしなかったのでしょうか。

控えめを美徳とする日本人には「日本語も正文言語に含めるべきだ」と主張することがはばかられるというのであれば(国際交渉でそういう遠慮は必要ないと思いますが)、せめて、EUのように、多言語主義を採用すべきだと主張し、TPP交渉参加国12カ国のすべての公用語をTPP域内の公用語として認め、全部の言葉で正文を作るべきだというぐらいの主張はできなかったものでしょうか。なんか情けないですね…。
(´・ω・`)シカーリシロオ…

TPPと言語の問題に関してさらに言えば、TPPの「政府調達」(公共事業の入札など)関連の案文では、やはり調達計画の公示は英語を用いるように努めるべきだと規定されています。

(内閣府HPにあるTPP協定の「全章概要」の第15章7条「調達計画の公示」(53頁)に、次の文章があります。「調達機関は、対象調達ごとに、附属書に掲げる適当な紙面又は電子的手段により調達計画の公示を行うこと、締約国は、調達計画の公示に英語を用いるよう努めること等を規定」。)

TPP発効後は、地方自治体が行うようなかなり小規模の公共事業の公示や入札手続きに伴う事務であっても、英語が使用できなければならなくなるのでしょう。日本の政府や自治体には、かなりの負担になるはずです。(業者に頼んで英訳してもらうことになるのでしょうが、財政負担は多額となるでしょう。米国をはじめとする英語圏諸国の業者がここで大いに儲けるんでしょうね)。

おそらく、入札後の事務手続きも、英語が使えないと文句を言われることになりますので、そこも英語化されていくのではないかと思います。やはり、日本でも、英語が次第に事実上の公用語となっていきそうです。

なぜ、ここでも政府は、やすやすと「調達計画の公示」は「英語を用いるよう努める」という条文を認めてしまったのでしょうか。英語国が一方的に有利になり、日本語を含む非英語圏は不利になります。せめて、「政府調達の文書は英語と同時に日本語でも作る」とかあるいは、それが利己的でいやだというのならば「TPP加盟諸国の公用語すべてで作成する」とすべきだったのではないでしょうか。

国際交渉の場では、国民のために主張すべきことを主張せず、国内では、国民に十分な情報を与えず、議論の場からは逃げ回る。そして国民に対しては、「グローバル化の時代だから、これからは外に打って出なければだめだ。英語がしゃべれなければ失格だ!」などとしたり顔で説教をする。

なんか最近の日本の指導者層は、非常に劣化しています…

また、暗い話になってしまいました。以前のようにもう少し明るいメルマガにしたいのですが、いけませんね。顔文字もショボーン (´・ω・`) 系が多くなってしまいます…

ながながと失礼しますた…

〈施 光恒からのお知らせ〉
●11月22日(日)に福岡のカフェで開催されるこじんまりとした勉強会の講師を務めます。
「グローバル化が損なう日本の活力――閉塞感はなぜ生じるのか?」というテーマで話します。
お近くの方はぜひ。
日時:11月22日(日)午前10時半~12時
「第8回 学ぶカフェ」
場所:箱崎水族舘喫茶室(福岡市東区箱崎1-37-21)
http://www.hakosui.net/
JR鹿児島本線 箱崎駅 徒歩8分、または地下鉄箱崎線 箱崎宮前駅 徒歩7分
会費:1000円(学生500円)(飲食代別)
問い合わせ先:学ぶカフェ事務局
manabucafe@gmail.com

●岩月浩二弁護士も、私も執筆しています。
中野剛志編『TPP 黒い条約』(集英社新書)(^^)
http://www.amazon.co.jp/dp/4087206955

●民主政治における翻訳の大切さについては、施 光恒『英語化は愚民化――日本の国力が地に落ちる』(集英社新書)<(_ _)>
http://www.amazon.co.jp/dp/4087207951

—メルマガ発行者より

ドイツはいま、5つの難問に直面しているという。フォルクスワーゲンの排ガス不正問題、世界的なデフレ、ギリシャ問題、難民問題、ウクライナ問題。

ウクライナ問題はやや特殊な事柄ながら、他の4つの難問はほぼ根っこを同じくするという。それは「経済学」の間違いに由来するグローバリズムだ。ユーロがその最たるものだが、現在の経済学の主流派である新古典派経済学は、国境を越えて、人・モノ・お金の移動の自由化を強く要請している。

また、多くの経済学者たちは、各国の規制を撤廃することで経済は最適化され、発展していくと言う。しかし、ユーロ圏、EU諸国を見る限り、経済発展どころか、勝ち組であるはずのドイツが経済的な難問を抱える結果となっている。

いったい、なぜこんなことになっているのか。

「グローバリズムは現代の帝国主義だ」と主張する三橋貴明が、ドイツが難問を抱えることになった背景、経済学の間違い、そしてグローバリズムという名の「新帝国主義」について詳しく解説する。

『月刊三橋』最新号「ドイツのバカの壁〜経済学の嘘が「国家」を滅ぼす」
http://keieikagakupub.com/lp/mitsuhashi/38NEWS_C5_100_mag_3m.php
※11/18まで1万9,000円相当の月刊三橋5本セット(計7時間01分)が100円でもらえます。