【平松禎史】霧につつまれたハリネズミのつぶやき:第廿話

From 平松禎史(アニメーター/演出家)

——————————————————-

「国の借金が1000兆円を超えた」「一人当たり817万円」
「次世代にツケを払わせるのか」「このままだと日本は破綻する」

国の借金問題という嘘はなぜ広まったのか・・・?

その答えはこちら
詳細はこちら

——————————————————-

  ◯オープニング

平成二十八年、2016年の一回目です。
今年もよろしくお願い致します。

話数表示には「二十」を「廿」と書いてます。
漢語由来の漢字で、常用漢字ではありませんが現在は人名用漢字に加えられているそうです。
子供頃、家のすぐ近くにあった銭湯には扉のついた衣服棚がありました。ふるびた木製だったのでロッカーという言い方は似合いません。
その衣服棚の扉にふられた数字、「十九」の次が「廿」でした。そう書いてあったんです。
その次は「廿一」「廿二」と続きます。もっとも、本物は縦書きですけどね。
というわけで、子供の頃に馴染んだ「廿」を使ってみました。

今回は、前半で子供の頃の話を、後半は先日ブルーレイディスクで観た映画『オズ はじまりの戦い』について触れます。

 第廿話:「僕らはみんなペテン師だ」

 ◯Aパート

ツイッターやブログなどで政治経済論議を書くようになって数年たちます。
今では、当メルマガを主催している三橋貴明さんや、寄稿されている青木泰樹教授、藤井聡教授、佐藤健志さん、三橋さんのつながりでスーパーコンピューターの齊藤元章さんや中野剛志さんなど、稀代かつ優れた学者・作家・言論人・実務家から直接お話を伺うことが出来るようになっています。
様々な人との出会いもあり、そのおかげで裾野も広がっていると実感できます。ありがたいことです。
「顔のない独裁者」の原作者さかき漣先生もその大切なお一人ですが、お会いしたばかりの頃、うろ覚えですがこんなご指摘を受けました。

「平松さんはアニメーターで文系の人なのに政治経済で分析的な考え方をしているのが不思議だ。」

さかき先生は政治経済よりも伝統文化に重きをおく小説家ですから不思議に思われたのでしょう。
確かに、三橋さんが常に提唱されている「言葉の定義を正確に」ということもスッと理解できましたし、構造的なことに興味がいくのはちょっと変わっているのかも。
というか、そういう興味が政治経済や歴史方面に向かっているのはアニメ業界では少数派かもしれませんね。
ちゃんとできている自信はありませんが、できるだけ根拠や一次資料をあたろうとする考え方は仕事でも役に立っています。

その理由を考えてみると、子供時代にさかのぼります。
トラウマが・・・てなことではありませんが、少しはそれっぽいかな。
つまり「カギっ子」だったんですね。
両親とも働いていて、小学生までは祖母がいましたが、遊び相手になるでもなく、友達と外で遊ばない時は家の中にあるおもちゃで遊び、それも飽きると本を読んでいました。
父は山本周五郎や大佛次郎の小説が好きで、本棚にたくさん並んでいましたが、小学生には難しくてさっぱりで、小説より百科事典を主に読んでいました。小学館の「万有百科大事典」です。
最初は図解を「眺めていた」だけでしたけどね。
特に「科学技術」「地理」「人体」が好きでした。図解がたくさんあったからです。
あいうえお順に載っている様々な事柄をひとつひとつ眺めるうち、だんだん解説を読むようになっていきました。
機械の原理や構造、地質構造や火山のメカニズムなんかが子供の頃にはおもしろかった。「人体」はご多分に漏れず、まっ先にちょっとエッチな項目を見たりとか・・・。

調べごとの習慣がある程度できたので、大人になってもモノゴトの原因や構造を調べるのは苦痛でなく、むしろ楽しんでしまうのでしょうね。

アニメーターになって、動きを作る時に実際の人物の動きが重力や慣性に影響を受けていること、性格の違いでしぐさも変わってくること、実在の機械や自然物などの動きから構造を考え、架空のメカニックや巨大生物など想像力を膨らませて描いていくことなどなど、観察から発想していくスタイルも同じようなところから来てるのでしょう。映像の文法を確立したヒッチコック監督や特技監督円谷英二さんの影響もあるでしょうね。

こういった自分のクセ、習性のようなものは、思春期から大人になる過程で自問自答するまでは明確に意識されないで、一種の思い込みのような状態で現れます。
人によるのでしょうが、明確に自覚できることはほんとうに少なくて、ボクなどはもう壮年になった今、ようやく「あ〜、そういうことか…」とわかることのほうが多い。
自分がどんな「思い込み」を持っているのか、なかなか自覚することができないのだと思います。

「思い込み」には良し悪しがあるものですね。
ボクは幸い、仕事では…良いことのほうに活用できていると思います。

 ◯中CM

後半は「思い込み」を引き継いで、サム・ライミ監督の2013年の映画『オズ はじまりの戦い』に触れます。
この物語は1900年に発表された児童文学「オズの魔法使い」の前日譚で、あらすじはこうです。
小さなサーカス団で働くペテン魔術師のオスカーが、騒動の末に気球で逃げ出した途中、竜巻に巻き込まれ「オズ」の国に飛ばされる。
オズの国では悪い魔女が暴れて、村人は救世主…「魔法使い」を待望していた。そこに現れたのがペテン師オスカーで、西の魔女セオドラに「待ち望んでいた魔法使いだ」と言われ、街へ案内される。

オスカーは、彼を「偉大な魔法使い」だと思い込んでいる魔女や村人たちの期待に困惑しながら、莫大な金銀財宝に目がくらんで魔法使いの王になることを承諾します。純真な彼女らを騙すことは容易いと。
しかし、翼の生えた猿や陶器の少女が示す友情や、南の魔女グリンダの誠実さに触れて、しだいに「善きペテン師」として目覚めていく・・・。

やや新しい映画なので実際の描写はあまり具体的に書かないで、感じたことを書いていきます。

 ◯Bパート

最初は、『死霊のはらわた』や『ダークマン』などホラー映画で見慣れたサム・ライミ監督作品と、この「善意」を根底としたファンタジー世界のギャップに困惑しながら観ていたんですが、これもライミ監督が以前から描いてきた世界観と同一線上にあることがだんだんわかってきました。

『スパイダーマン』三部作の頃のライミ監督は、『ギフト』や『スペル』のようなホラー映画でも内容面の厚みが増していて、『オズ はじまりの戦い』のような純然たるファンタジー映画にも、一種の毒…苦味を含んでいます。
子供も楽しめるファンタジーなので薄められてはいますけどね。

オスカーを利用しようとする魔女たちと、純粋に信じる魔女や仲間や村人たちの双方に、偉大な魔法使いがいるはずだという「思い込み」が表裏一体に存在しています。

両者の間に位置し揺れ動くのがペテン師オスカーで、彼のペテン師の才能を、私利私欲でなく、多くの人たち(公=おおやけ)のために使うことができるのかが物語のカギとなります。
元々持っていた「善意」を見つけていく物語ですが、その過程では、自分がペテン師であると自覚することが重要な意味を持っています。
本物の魔法使いに変身するのではなく、ペテン魔術師として出来ることをやる。
この転換はお見事でした。

『スパイダーマン』三部作の大きな物語は、スーパーパワーを手に入れたピーター・パーカーが「大いなる力」を自覚し、使い方を選択していくものでした。
実はキャラクターデザインで参加した『寄生獣』も似ていて、人間の傲慢さを自覚し、少しでも善き「選択」を重ねていくことが大きなテーマだったと考えています。

オズの魔法使いになるオスカーも、ペテン師としての才能の使い方を自ら選んだ。
魔法使いになろうとするのではなく、ペテン師として、です。
その背景には、「思い込み」に左右されやすい善悪魔女たちや村人の存在があります。完全な人は誰もおらず、みな欠点を持っているのです。みんなが自分を守ってくれる魔法を期待して、自らを騙している。
『顔のない独裁者』のように、思考停止し思い込みで自分だけは正しいと自らを縛る民衆が最悪の状況を作り出していくダークな描き方とは逆ですが、現実の苦さを含んだ物語だといえましょう。

当メルマガ第二話でご紹介したジュゼッペ・トルナトーレ監督の『明日を夢見て』とも通じます。これも共同幻想による共犯関係という側面で、映画のペテンを悲劇的に描いた物語でした。

『オズ…』はファンタジー映画であるにもかかわらず、問題の解決方法はかなり現実的に…といっても映画的なウソはありますが…考えられています。

 × × ×

普通の人間が魔法の力を手に入れたり、完全な正義が世界を救っていくという物語は、今やファンタジーでも説得力がない、ウソっぱちだと見破られてしまいます。
現実の世の中には「ペテン師」が跋扈し「ペテン」が渦巻いている。
ゲームやSFに親しんでいる若者層だと思いますが、さらに一歩進んで(?)現実の「ペテン的」できごとに直面した時、一部にはこんな会話を楽しんでる人たちもいるようです。

「”キムタクはSMAP解散阻止のため何度もタイムリープしている説”が浮上」
詳細はこちら

芸能界のことはよくわからないけど、ショービジネスの世界には見たくない現実がつきものだということくらいは、アニメ業界からも伺えます。
「ペテン的」できごとかをかわすため、自ら別な「ペテン」を作り出すこともあるのですね。
ちょうど、オズの国の人々が「世界を救ってくれる魔法使い」を信じていて、オスカーがそうに違いないと思い込む構図に似ています。キムタクは才能に恵まれたスターなのは確かですが、彼も普通の人間なはず。でも「タイムリープしてSMAP解散を阻止しようとしている!」という魔法の呪文を作り出せば芸能界の汚い部分を笑いに変え、傷つかずにすむわけですね…。

政治の世界でも「戦後レジームからの脱却」という「ペテン的」魔法の呪文がはやりました。いまだにこの呪文で身を守っている「保守系」の人がいるようです。
数々の経済失政や、年末の慰安婦日韓合でも、彼らは「首相はシタタカ」「合意は『肉を切らせて骨を断つ』戦略なんだ」「安倍の代わりはいないじゃないか」などと、新たな「ペテン」を作り出し、より重大な「ペテン」に気が付かないように自らを騙し、守っているようです。
あるいは政権批判のためなら政治と無関係な話題や根拠不明な陰謀論を持ち出すことも、似たようなものです。

僕らはみんなペテン師になり得る存在なのです。

 × × ×

では、善きペテンはあり得るか?
なにが人々を活かすのか。悪しきペテンと善きペテンは見分けられるのか?
また、悪しきペテンを善き方向へと導くことは可能なのか?
導くのは誰なのか?

『オズ はじまりの戦い』は、「人々を騙すペテン」の意味、こころざしによって良き方向へ転換できる可能性を示し、使い方を選択するためには自らを見直し、ペテンをペテンだと自覚することが必要だ、という苦い現実を映す魔法の鏡だと感じました。

これは「歴史」とはどういうものなのか、「国家」とは何か、を考える意味でも、とても重要なテーマです。
「歴史」とは、民族・国民・国家をまとめるための、ペテンを含む魔法の呪文のようなものだからです。
できれば、「オズ」の物語のようにポジティブに捉えていきたいものですね。

  ◯エンディング

ディスクのボーナストラック、主演のジェームス・フランコがスタッフ・キャストにインタビューしたドキュメントがおもしろかった。
サム・ライミ監督は、脚本や物語のテーマ、登場人物の描写、俳優への演技指導など、監督としての仕事を様々に語っているのですが、リポーター役のフランコはこんな質問をします。

「こじつけるつもりはないが、本作のオズとサムは似てる。サムも昔はマジシャンだったんだろ?」

サム・ライミ監督がかつて奇術のショー企画などをしていた経験を指して言っているようです。
ライミ監督はこんな風に答えるのです。

「僕がオズに引かれるのは自分もペテン師だからだ。人を操るのは監督も同じ。だから欠点も含めて共感できる。」

監督や俳優は演出で観客(人)の気持を操る。フィクションでは観客を上手に操る…「騙す」…テクニックが重要ですから、とても共感できます。
そして最後にこう言います。

「ここだけの話にしてほしいんだが、僕は実は監督じゃなくて、そのフリをしているんだ。ただ、監督らしい雰囲気を出しているだけ。監督を気取っているが、君と同じく役者なんだよ。」

観客を騙す前にスタッフやキャストを騙すのが監督の仕事。ゆえに責任は重い。
そして、善きペテン師は人々に幸福な「結果」をもたらすのです。

ーー 平松禎史(アニメーター/演出家)

↓↓発行者より↓↓

「国の借金が1000兆円を超えた」「一人当たり817万円」
「次世代にツケを払わせるのか」「このままだと日本は破綻する」

国の借金問題という嘘はなぜ広まったのか・・・?

その答えはこちら
詳細はこちら

*****************************

【平松禎史】霧につつまれたハリネズミのつぶやき:第十九話

From 平松禎史(アニメーター/演出家)

——————————————————-

【YouTube】
三橋貴明が自らの目で確かめた中国”鬼城”の実態とは?
https://youtu.be/YkvY94zM_yc?t=4m16s

TPP日本の植民地化を進めるのか・・・?
その答えはこちら
https://youtu.be/ntQpHSDoyjY

——————————————————-

 ◯オープニング

フランスはパリで同時多発のテロが起き、130人を超える市民が犠牲になりました
亡くなられた方々への哀悼と、痛みを共有したい気持ちです。

すでに多くの方が指摘しているように、テロ集団「ISIL」によるフランスのテロ以前に、欧米社会による空爆、掃討作戦でシリア・イラクなどイスラム世界の人々が殺されています。
双方が「正義」を唱え、相手を「平和を乱す者」と設定して殺し合っています。

すべての被害者に対して哀悼の意を捧げたいと思います。

私たちにとって全く理解の出来無い暴力の連鎖です。
一連の事件に対し、様々真剣な意見が交わされていていろいろと考えを巡らすのですが、まずは自分に対して、どこまでいっても『裏窓』から見た眺めにあれこれ言っているだけじゃないのか、と疑問が湧いてくるのです。
イスラム社会についても、欧米社会の考え方も、私たちには「よく知らない」世界と考えざるを得ないところがあります。

少し角度を変えてみて
ヒッチコック監督作品でも人気の高い『裏窓』の世界観と重ねあわせて考えてみます。

第十九話「『裏窓』からの眺めが襲って来る日」

 ◯Aパート

映像の技術的な話になりますが、映像演出では映っている画面が誰の視点なのかを意識します。
誰の視点なのか明確にしない映像は、あまり長く続くと不安を覚え、「で、何?」と疑問が湧いてしまうのです。
ドキュメンタリーではナレーションが共感の糸口を担保し、物語では観客が共感できる「よく知っている」主人公が必要になります。

観客と多くの情報が共有される登場人物が主人公になります。どんなに有名な俳優が演じていても、前情報で主人公だと説明されていても、映像での情報共有が不十分だと物語をうまく伝えることができなくなります。
信頼関係ですね。
そうすると、主人公の見た景色であるとか、会話している人物は、主人公の気持ちを元に観察することになります。
ボクはこの言葉には慎重ですが、一般に「感情移入」と言われるものです。

観客が「よく知っている」と感じる主人公の見た世界を、観客も共有することになりますから、特に古典的な演出スタイルの場合、視点を明確にすることが最も重要なのです。

 × × ×

『裏窓』の主人公ジェフはカメラマンで、危険な場所へ赴いて刺激的な写真を撮る行動派カメラマン。
カーレース事故の決定的瞬間を撮った時に巻き込まれ、脚を骨折して車椅子生活を強いられていることが冒頭の1分ほどで分かります。
観客のほとんどの人々とカメラマンの生活は重ならないのですが、この向こう見ずな人物に親近感を持つように演出されているので、ジェームス・スチュワートの人柄とあいまって「よく知っている人」のように感じられるようになるのです。

もう一人の主人公リザはグレース・ケリー扮するファッションモデルで、カメラマンの恋人。
絶世の美人でチャーミングだが、どこかプライドの高いイメージ。役柄もそのままで、見ているうちに「よく知っている人」になっていく。

ジェフとリザには対立する人物が二人登場します。
一人は看護婦で往診にやってくるステラ。
口うるさくて何かと説教口調で、ああ言えばこう言うタイプ。恋人との関係にも口を出したりして疎ましがられますが、憎めないおばちゃんで好感が持てます。
もう一人はカメラマンの旧友のドイル刑事。
熱血気味なジェフとは対象的に、ものごとを冷静に見るややニヒリストで良い感じではない。
この二人には「よく知っている」人である主人公たちと信頼関係があるので、意見は対立しても仲間だと認識することになります。

車椅子生活のジェフは暇つぶしに裏窓から見える景色を観察して過ごします。
裏窓から見える景色は「よく知らない」人たちが住んでいる、世界の縮図なのです。
ジェフにとって「よく知らない」人々は愛すべき隣人たちで、映画の観客も同じような共感を得ることが出来ます。

映画の舞台はジェフの住む一室と裏窓から見える中庭を囲むアパートのみ。
観客と対面する登場人物は四人だけです。
非常にコンパクトに設計された世界から、現代にも通ずる様々な愛憎が描写されます。

ジェフとリザ、ステラおばちゃんが観客にとって「よく知っている人」になり、裏窓の世界が紹介され、映画の主な要素が揃ったところで「事件」が起きます。
事件を起こすのは裏窓世界の「よく知らない」人のひとり、セールスマンのラーズ・ソーワルドです。

 ◯中CM

そのまま『裏窓』の話を続けます。

この映画の前半で重要なのは、「事件が起きた様に見える」ことなんですね。
ある日を境に病気で寝ていたはずの奥さんが忽然と消える。
その数日前の夜、悲鳴のような声をジェフは聞き、大きなトランクを何度も運び出す夫を目撃します。
カメラマンは事件現場に慣れているため、病気がちの奥さんを夫(ラーズ)が殺してバラバラにしどこかに捨てたのだと結論づけます。
しかし、誰もその現場を見ていないし、映画でも映されません。あくまで「疑義」です。
リザは当初この話を疑いましたが、夫が始末している大型の包丁やのこぎりを見て「殺人」を信じます。それだけでなく、ジェフとふたりで推理に夢中になっていきます。
しかし
旧友のドイル刑事だけは慎重で、信用しません。
捜査はできないが調べてみると言って後日幾つかの証言を取ってきます。
その結果は「殺人」を否定するものでした。
奥さんは療養で田舎に行ったというのです。

主人公二人は、そんなはずはない。確かにあの夫が殺したに違いないと憤ります。

そして、リザは気付きます。

奥さんが無事ならそれで何より良いはずなのに ”殺人を期待していた”

…と。

この場面は、佐藤健志さんの本メルマガへの投稿『「聖羅ちゃん」のパラドックス』( http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/11/18/sato-64/ )でも指摘された問題点とも通じますね。

この前後が「起承転結」の「転」に位置する場面です。

 ◯Bパート

そんな時、向かいのアパートの奥さんが泣き叫ぶ。愛犬を殺されたのです。
裏窓から見える住人たちに叫びます。
「誰なの!?私の犬を…!これが”隣人”っていうの?隣人っていうのはお互いの生き死にまで気にかけるものよ。皆は無関心。こんないたいけな小さな犬を殺すなんて。唯一皆を慕っていたのに。慕ってきたから殺したの!?・・・」

この場面だけ、ジェフの視点から離れて描写されます。
この奥さんの叫びは映画の登場人物の誰の視点でもないのです。
この騒ぎを見ていた裏窓の住人たちは、同情したり、パーティの方が大事と無関心だったり受け取り方は様々。
ジェフとリザも殺犬事件が起きた中庭からの視点で、住人たちのひとりとして映されます。彼らはどう受け取るのか?と。

このかなり唐突な視点移動によって、見ている観客も我に返ります。
あの騒動にひとりだけ無視を決め込んでいた人物がいました。
ラーズ・ソーワルドです。
ジェフは、花壇の土を掘り返す犬をラーズが怒っていたのを思い出します。
2週間前の写真と比較すると手前の花が低くなっている。掘り起こして再び植えない限り一部だけ低くなることはあり得ない。
「何か」を埋めたのだ。

殺人を期待するゴシップ趣味から誤認したのではなく、現実に起こっていた、とわかります。

ここからはラーズが妻を殺したことに疑う余地がなくなり、行動に出ます。
リザがラーズの部屋へ忍び込み、生きていれば付けているはずの結婚指輪を発見します。
この時、戻ってきたラーズとリザが揉み合いになります。

車椅子のジェフと同様、観客はリザを助けに行くことができません。
映画館で観た時は「誰か助けて!」と叫びたくなりました。緊迫した見事な場面です。
この後はラストに向けて一気に畳み掛けていきます。

 × × ×

この映画は女性の批評家に覗き見を肯定する悪趣味な映画だと酷評されました。
しかし、「映画」そのものが他人の人生や他の世界を覗き見する装置ですから、この批判は映画自体を理解していないことになってしまいます。

世界の縮図として描く意図は明確ですし、人が持つ予断や、与えられた一方的な情報で事実を捻じ曲げかねない危険性を示唆している点でも一種の社会批判になっています。

今回は、映画の見方や解釈は控えめに、ほとんどあらすじを書いただけになりましたが、それだけでも現代社会に対する問題提起を紹介することになる。
『裏窓』に限らずですが、歴史に残る名作と言われる作品は時代を超えて楽しめます。
作り手に刹那的な話題性に頼らない社会を見る目があり、作品を多角的に見ても楽しめるからだと思います。

さて、『裏窓』のグレース・ケリーは、彼女が出演したヒッチコック映画3本の中で最も魅力的です。
ファッションモデルでどこか気取っていた感じの前半から、自ら容疑者宅へ忍び込む行動力を見せるとこなど、いわゆる「ギャップ萌え」の古典です。
そんなグレースのライバルが、ラーズ・ソーワルドの隣りに住む「美人ダンサー」。
彼女は下着姿でダンスのレッスンをしたり、リッチな男たちにモテモテなエンジョイ系のギャルなのですが、最後の場面で本命の男性が登場します。
彼氏はリッチな男どもと違って背が低くてぶさいくな軍人でした。

『裏窓』は1954年公開です。
ドイル刑事は、ありもしない事件なんかより戦争のホラ話でもしようやと言うのですが、ニュアンスからして昔話で、この戦争とは第二次世界大戦のことでしょう。
しかし、前年まで朝鮮戦争があったのです。
会話は聞こえないので戦地から帰ってきたのかわかりませんが、長いこと遠く離れていた感じが二人のしぐさから伺えます。
ジェフとドイルの話し方とはかなり温度差があります。
現代では「忘れられた戦争」と言われる朝鮮戦争ですが、太平洋の向こう側の戦争は、もしかしたら「裏窓から見えるどこか」のように感じる面が当時からあったのかもしれません。

 ◯エンディング

裏窓から散々覗き見をしていたジェフは、ラーズが部屋に襲来し殺されかけることで罰を受けます。
自分は安全地帯にいるのだから身の危険はないはずだ、という思い込みで過度な干渉をしたせいだ、とも思えます。

ジェフが気が付かなったとしても、あるいは疑いを持ちつつ干渉しなかったとしても、ラーズは遅かれ早かれ逮捕されていた可能性があります。
しかし
その保証がないからこそ、ジェフは事件に干渉した。
映画としては、その行動を正当だと位置づけています。
裏窓からの眺めが襲ってきたとしても。

ラーズにどんな言い分があったとしても妻殺しは明確に重罪です。

テロも、どんな言い分があったとしても殺人に違いはない。
テロリスト掃討作戦も、どんな言い分があったとしても殺人に違いはない。
お互いに理解し合うのが不可能な者同士の「心中」のようです。

こんな風に考えられるのは、「今のところ安全な」日本にいるからでしょうか。

私たちはこれに軍事的な干渉を(後方支援含め)するべきかそうでないのか。
「ISIL」は日本に宣戦布告し、すでに殺された邦人がいるのだから悩む余地などない、と考えるべきか。

「ISIL」側の視点に立つことは不可能でしょう。
では、欧米側の視点には立てるだろうか。
日本の視点とは?

 ◯後CM
一方的にしか考えることができなくなった人々の物語。
アニメ(ーター)見本市第22話 「イブセキ ヨルニ」
原作:さかき漣「顔のない独裁者」、監督:平松禎史
http://animatorexpo.com/ibusekiyoruni/

↓↓発行者より↓↓

【YouTube】
三橋貴明が自らの目で確かめた中国”鬼城”の実態とは?
https://youtu.be/YkvY94zM_yc?t=4m16s

TPP日本の植民地化を進めるのか・・・?
その答えはこちら
https://youtu.be/ntQpHSDoyjY

*****************************